スポンサーサイト

  • 2016.08.22 Monday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています

神護寺(じんごじ)

神護寺
入口まで延々と続く急な石段が過酷なお寺。見どころは金堂に安置されている薬師如来像。毎年5月には絵画や書物を虫干しにする「宝物虫払い」が行われ、本尊の薬師如来、多宝塔の五大虚空蔵菩薩、絵画では両界曼荼羅、釈迦如来像、源頼朝の肖像、山水図などは国宝。大師堂、日光月光菩薩など重文の文化財が展観される。地蔵院前の庭の断崖では厄払いとして「かわらけ投げ」が楽しめる。
もとは、和気清麿(わけのきよまろ)が建てた愛宕五坊のひとつであった。天長元年(824)河内の神護寺と併合されて神護国祚(そ)真言寺とした。最澄や空海も招かれて鎮護国家の道場となり、14年間住持した空海が初代という。のちに荒廃したが、寿永3年(1184)文覚が源頼朝の援助のもとに再興。

神護寺 高山寺
神護寺 高山寺

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

東福寺(とうふくじ)

東福寺
next洛南エリア
摂政九条道家が嘉禎2年(1236)から建長7年(1255)と19年の歳月を費やして、聖一国師を開山として造営したものです。東福寺の名前の由来は、奈良の大寺のように大きく、興寺のように盛大を極めた寺になぞらえようとそれぞれ一字ずつとって「東福寺」と命名されました。
三門・本堂・方丈・庫裏などからなる伽藍の北・南・西に25か寺の塔頭寺院がある。伽藍の北に洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋(えんげつきょう)という3本の橋が架かっている。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもの。
天応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災のため大部分を焼失。
貞和3年(1347)6月には仏殿の上棟が行われ、20余年を経て再び偉観を誇ることとなった。
その後、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑として面目を伝えたが、明治14年12月に仏殿・法堂・庫裏・方丈を焼失した。
大正6年より本堂の再建に着工、昭和9年4月に落成、明治23年に方丈、明治43年に庫裏も再建された。

■本堂■三門
■禅堂(重要文化財)
南北朝時代・貞和3年(1347)建立、最古最大の道場
■浴室(重要文化財)
■東司(重要文化財)
■仁王門(重要文化財)■愛染堂(重要文化財)■六波羅門(重要文化財)
■月下門(重要文化財)
月華門とも書く
■通天橋■開山堂(重要文化財)■十三重石塔(重要文化財)
■方丈・庫裏■方丈庭園
東福寺
東福寺
今井 規雄

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

滝口寺(たきぐちでら)

滝口寺
滝口入道と横笛の悲恋の寺といわれている滝口寺は、もと往生院三宝院寺と呼ばれていた。念仏房により創建された「往生院」は念仏の道場として栄え境内地も山上から広い地域に渡って数々の坊があったと言い伝えられる。その後、応仁の乱等の戦乱により変遷を経て、明治維新後に一時廃寺になっていた。祇往寺の再建に続いて往生院も再建され「滝口寺」と命名された。滝口入道は、もと平重盛の侍で「斎藤滝口時頼」。
平清盛の西八条殿での花見の宴に於いて建礼門院付きの女官・横笛と恋に落ちる。しかし、時頼の父から横笛の身分が低いことを理由に交際を反対され、嵯峨野の往生院で出家してして「滝口入道」と名乗る。時頼恋しさに京で入道が出家したということを伝えきき、横笛が訪ねて来るが、修行の妨げになるとして追い返される。
横笛は泣く泣く近くにあった石に血で歌を書き帰った後、法華寺で尼になった。入道は未練が残ったまま別れた女性に住いを見つけられたからには修行の妨げになると思い高野山に移った。横笛は間もなく出家先の法華寺で病死した。悲報を伝え聴いた滝口は修行を重ね、「高野聖」と呼ばれる高僧になったという。

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

二尊院(にそんいん)

二尊院
本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため二尊院と呼ばれています。
正式名称は「小倉山二尊教院華台寺(けだいじ)」といいます。百人一首で名高い小倉山の東麓にあります。嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が承和年間(834-847)に開山したといわれています。明治以降天台宗に属している。

釈迦如来
人が誕生し人生の旅路に出発するとき送り出してくださる「発遣(はっけん)の釈迦」
阿弥陀如来
その人が寿命を全うしたとき極楽浄土からお迎えにくださる「来迎の阿弥陀」
応仁の乱(1467-1477)により諸堂が全焼。現本堂・唐門(勅使門)は約30年後に再建。

■本堂(京都市指定文化財)
京都御所の紫宸殿(ししんでん)を模して内陣も紫宸殿のお内仏と同様に造られました。外陣の床は「うぐいす張り」になっていてます。

■総門
伏見城の「薬医門」を移築したもの

■時雨亭
藤原定家が百人一首を選定した場所として名高い

■茶室御園亭
狩野永徳筆の腰張りがあります

■梵鐘
慶長9年(1604)の鋳造でしたが、平成4年(1992)に再鋳造し「しあわせの鐘」と名づけらる

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

三千院(さんぜんいん)

三千院
大原の地一帯は、千余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた場所です。三千院は別名、梶井門跡、梨本門跡、円融院門跡とも呼ばれる天台宗五箇室門跡の1つである。境内南側の庭園内にある往生極楽院は平安時代末期、12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。たび重なる移転の後、明治4年(1871)に現在地に移った。開基は最澄である。京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

泉涌寺(せんにゅうじ)

泉涌寺
天長年間に弘法大師が、この地に庵を結んだ事に「御寺(みてら)」として広く親しまれている。法輪寺と名づけられた後、一時、仙遊寺と改称された。順徳天皇の御代・建保6年(1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師俊芿が時の宋の法式を取り入れて、この地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が湧き出たことにより寺号を泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく湧き続けているようである。

■霊明殿■仏殿・舎利殿■宝物館・心照殿■楊貴妃観音像■御座所

■三尊仏
仏殿内陣には伝運慶作の釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏が安置されている。

■海会堂
御所の御黒戸を移築したもので、歴代天皇・皇族の御念持仏が祀られている。

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

蓮華寺(れんげじ)

蓮華寺
蓮華寺は、現在の京都駅付近にあった浄土教系の古寺で応仁の乱(1467〜1478年)後、荒廃していたのを寛文2年(1662)加賀前田家の老臣・ 今枝民部近義が、祖父・ 今枝重直の慕提のために、この地に移し再興した天台宗の寺。高野川の清流を引いた池泉庭は詩仙堂の石川丈山作と伝わり、豊潤な池が書院のすぐ手前に広がる造りに贅が感じられます。見どころは書院の奥から建物を額縁に見立てて庭を眺めてみるといった空間の美。切り取られた空間いっぱいにカエデが植えられているので紅葉の季節は是非訪れてみるのをおすすめできます。また、風景が水面に映り美しい。

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

法金剛院(ほうこんごういん)

法金剛院
律宗・唐招提寺に属している寺院である。平安時代の初め、天長の頃(830年)右大臣・清原夏野が山荘を建て、死後に寺として「双丘寺(ならびがおかでら)と称していた。その頃、珍花奇花を植え、嵯峨、淳和、仁明の諸帝の行幸を仰いだ。
のちに文徳天皇が大伽藍を建てて天安寺としたのを、大治5年(1130)、鳥羽天皇の中宮待賢門院(たいけんもんいん)が復興し法金剛院とした。庭園は数少ない平安時代の庭で、名勝。桜、蓮、紅葉など四季折々に美しく、その美観は西行の歌にも詠まれた。西行が美貌の待賢門院を深く思慕していたことも知られている。本尊の阿弥陀如来は藤原時代の代表作で重文。十一面観音、地蔵菩薩、僧形文殊菩薩も重要文化財である。

■庭園
待賢門院が極楽浄土として造園させた「池泉回遊式浄土庭園」である
なかでも石立の僧・林賢と静意の作である「青女の滝」(せいじょのたき)は巨岩を並べた雄大なものである。数少ない平安時代の庭園であって、しかも発願者・作者がはっきりし、その遺構がそのまま残存しているのは誠に貴重なものである。

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

妙心寺(みょうしんじ)

妙心寺
平成18年NHK大河ドラマ「功名が辻」山内一豊夫妻の菩提寺である。
京都最大級の禅の寺といわれている。臨済宗妙心寺派の本山であり、正号を「正法山」という。花園法皇が離宮を改めて禅寺とした。
諸堂伽藍は、典型的な禅寺様式で全国唯一といわれ、その七堂伽藍である山門・仏殿・法堂・方丈・庫裏・経蔵・浴室を47の子院(塔頭)が囲み、それぞれ重要文化財に指定されている。特に法堂の雲龍図は狩野探幽筆のもので日本最大級の図である。
法堂拝観を申し込むとこちらも重要文化財の浴室を見学することができる。
織田信長を暗殺した明智光秀が立ち寄ったことから「明智風呂」と呼ばれており、明智光秀の菩提を弔うために創建された。

■大通院
天正14年(1586)
一柳直末が南化玄興禅師を請じて開祖し創建した。
二世の湘南禅師は山内一豊の子であり、以後、山内家の菩提寺となる。

特別公開期間
平成18年2月1日(水)〜平成18年3月26日(日)
但し、3月12日・20日・21日は休止です)

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る

圓光寺(えんこうじ)

圓光寺
慶長6年(1601)徳川家康は、国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。僧俗を問わず入学を許した。当寺には、出版に使用された木活字が現存している。その後、圓光寺は、相国寺山内に移り、更に寛文7年(1667)に現在の一乗寺小谷町に移転した。
境内山上には徳川家康を祀った東照宮や、墓地内には村山たか女(花の生涯のヒロイン)、マレーシア留学生オマール氏(広島原爆にて死亡)の墓がある。

京都うぇるなびは京都の旅をまるっとサポートしています。
pochi京都うぇるなびに戻る
calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>
sponsored links
京都うぇるなび/English
English Here
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
recommend
recommend
京都紅葉百景
京都紅葉百景 (JUGEMレビュー »)
橋本 健次, 中田 昭
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM